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ある雑誌の原稿 7 [語り]


 ある雑誌の原稿 7

 人間の可能性を見てみたい

 人間は、自分を伸ばしていくという点では限界がないのではないかと思います。自己変革の可能性は無限だと私は信じています。そして、自分を伸ばしつつ、人のためにできる何かがあると思っています。子どもたちにはその何かを見つけて、全力を出して人のために役立つ生き方をしてほしいのです。

 私はいまだに理想の子供というものを見たことがありません。いくらいい子でも、それは理想ではないかもしれない。教育がもっと進歩すれば、いままでにない人間的にも学力的にもすぐれた子が出てくるのではないかと期待しているんです。それを私は「無限力の覚醒」といっています。どこまで行けるのか、そういう人間の可能性を見てみたい。

 子どもというのは一日で変わることがあるんです。「えー、あのー」しか話せなかった子が、一回いい意見を言えると次の日からガラッと変わってしまう。それを契機にグーッと伸びる子もいるし、クラス全体が盛り上がっていく。一気に次元が変わってしまうんです。その変わる瞬間がすごく面白い。

 私は自分がいくら褒められても嬉しくもなんともない。でも、子どもが伸びた瞬間は何ものにも変えられないほどの喜びを感じます。「やったね!」という感じです。

 その喜びは、その子の中にしっかりとした根ができたと感じられるからです。それとともに、自分の求めている教育が間違っていないと子どもたちが証明してくれているからだと思います。変わっていく子どもたちを見ると「やめられないよな、こんな面白い仕事」と、うれしくてしかたないんです。

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ある雑誌の原稿 6 [語り]

 
 ある雑誌の原稿 6

 人にやらせたければ まず自分から

 私は「黙動」という考え方を大事にしています。人に「あれしろ、これしろ」と言わないで、自分がまず動くという意味です。子どもに本を読ませたいと思ったら、まず自分が夢中になって本を読んでみる。すると子どものほうから寄ってくるのです。自分は何もやらないで「あなた、やりなさい」と言っても子どもは決して動きません。

 「黙動」を十年続けると、教壇に立つだけで子どもたちは静かになります。また、言葉に頼らない分、口を開いたときの一言一言に重みが出てきます。「先生の近くに行くと元気になる」とか「握手をしてもらうと力が出る」と言われますが、それは黙動の力です。

 子どもには一人ひとり、その子ならではの能力があります。私の役割は、それを突っついて花開く準備をすることです。小学校ですから、開花はもっとあとになると思いますけれど、スイッチを入れるとポンと爆発する火種みたいなものをつくるのが私の役目です。その意味では、まさに子どもの「根」を養っているのです。

 子どもにしっかりとした根を養うには二つの基本があります。一つは自分に対する自信を育てることです。「自分は結構できるじゃないか」という自信を持たせてやる。もう一つは、人に対する思いやりを育てること。親切にしてもらったら、それをお返しする。そういう「愛し、愛され」という関係を育むことが大事です。

 自信と思いやりという二つの基本を身につければ、人を切ったり騙したりしなくなります。相手のいいところを見つけて、自分のいいところも引き出してもらうような関係がつくれるようになります。そういう部分を小学校のうちに伸ばしたいと考えて、実践をしているのです。

 たとえば、いつも赤鉛筆を忘れてくる子どもがいるとします。こういう場合、普通ならば「明日から気をつけなさい」と注意したり、親に連絡を取ったりするものです。しかし、その厳しさは愛情があっての厳しさではありません。愛情があれば「どうして持って来られないのか?」とその子の事情を考えるはずです。もしかすると経済的な理由があるのかもしれない。あるいは、お母さんが買ってくれないのかもしれない。そういう背景を何も考えずに注意するのは、相手を責めることでしかありません。

 注意された子どもは思うはずです。「先生は僕のことを責めるけれど、僕に何をしてくれるの?」と。実際に何もしていないのです。人のことを責めるのならば、まず自分が動くべきです。自分に何ができるか、と考えてみるのです。赤鉛筆を五十本ぐらい買っておいて、削って筆箱に入れて用意しておけばいいんですよ。そして、忘れた子にはそれを貸してあげればいい。

 私なら「赤鉛筆、赤鉛筆はいりませんか? お客さん、どうですか?」と笑いながら貸してあげる。そうすると、だんだん忘れ物がなくなります。

 忘れ物が多い子は愛されていないのです。いい点を取ったときや、いいことをしたときだけ愛される。でも、失敗すると怒られる。それは愛とは言いません。愛というのは、いいも悪いも全部含めたものです。「忘れ物をしても先生は怒らない」「ニコニコして貸してくれる」となれば、子どもは安心だし、うれしくなります。だから、それに応えようと、忘れ物をしなくなるのです。「愛し、愛され」とはこういう関係です。

 あるとき知り合いの教師から「上履きをずっと持ってこない子がいる。どうしたらいいか?」と相談されました。私は「休み時間に靴屋に行って上履きを買ってきてやれ。それに名前を書いて置いておけ」とアドバイスしました。その先生はその通り実行しました。そうしたらどうなったか。卒業式のとき、「上履きをくれたのは先生だろ? ありがとう」と、その子がお礼を言いにきたのです。

 教育とはそういうものなのではないでしょうか。気づかれなくてもいい。でも、その子のために自分に何ができるのかといつも考える。これが原点なんです。「やってあげている」と思うと疲れますが、思いやりを持って自然にしていれば、あとは相手が感謝しようがしまいが別にかまわない。そういう姿勢で取り組めばいいと思うのです。

 私は子どもをあまり怒りません。怒るのは人を馬鹿にしたとき、三回言われても改善しないとき、全力を出さないとき、そして命を粗末にしたときぐらいです。そういうときはメチャクチャ怒ります。「おまえ、力をセーブしただろ。全力を出していないだろ。手を抜いたらそこから腐るんだよ」と。

 人がわかろうがわかるまいが、結果がどうであろうと、全力を尽くすことが大事なんです。手を抜いてはいけない。楽をしようと思うと、自分のレベルがどんどん落ちていきます。だから、私も自分が先頭に立って実践するし、人にあれこれ言わないのです。


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 ある雑誌の原稿 5 [語り]


 ある雑誌の原稿 5

 「指名なし発言」で育つ 思いやりの心

「何々さん」と先生が指名して「はい」と子どもが答える。よく見る授業風景です。しかし私は「指名なし発言」という授業をしています。この授業では一切指名はしません。子どもたちが自主的に立ち上がって、次々に発言していくのです。

 自由にするとくだらないと思うような意見も出てきます。でも、それが面白い。無駄だと思うのは、教師がそこにダイヤモンドを発見できないからです。もしかしたらいいことを言っているのかもしれないと真剣に耳を傾けて、その意見をどうしたら別の意見に結び付けられるかと考えれば、子どもが活きてくる。それは教師の腕一つです。

 一年生ぐらいだとみんな話したくてしかたないんです。だから気が済むまで言わせてあげる。満足したころを見計らって「そろそろいいでしょ、今度は何々君に譲ってあげようね」と促すと「うん」と素直に譲れるのです。それを「君は何回も言ってるでしょ」と端から切ってしまうと、「先生は僕の話を聞いてくれない」と不満だけが残ってしまう。

「場の空気を読む」という言い方がありますが、空気を読みながらみんなを活躍させてあげると、子どもたちも「あっ、あの子はまだ意見を言っていない」とだんだん譲り合うようになります。譲ってもらった子は「ありがとう」と感謝をしますから、譲った子も満足する。そして人が喜んでくれるうれしさは、自分が意見を言って満足するのとは桁違いだと気づくのです。

 みんなで一個のいいものを作ろうと思えば、何も否定しなくていいのです。「どうしたらもっと良くなる?」という形で進めれば、みんな前向きに取り組める。せっかく意見を出しても「くだらない」と言われたら、大人でもへこんじゃいます。

 これを逆から見れば、いくらいいアイデアがあっても、人の協力がなければ絶対に実現できないということです。オリンピックの金メダリストは必ず「皆さんのお陰です」と言います。サポートしてくれたり応援してくれた人がいて、たまたま金を取れた。取ったのは自分だけれど、それは最後に取っただけであって、たくさんの人が協力してくれたおかげだ、と。それはお世辞ではなくて実感だと思います。自分を振り返っても、そう感じます。
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ある雑誌の原稿 4 [語り]

 ある雑誌の原稿 4

 悩みの中で掴んだものこそ本物

 一般的に教育というと学力と生活習慣を分けて考えます。でも、私はそう考えません。学力をつけることは頭を良くすることにつながりますが、気遣いができるというのも頭がいいということなんです。友達が重い荷物を運んでいたら手伝ってあげる、これも学力だと思います。学力と心の成長はコインの裏表なんです。

 だから「どうして勉強しなくちゃならないの?」と子どもに聞かれたとき、私はこう答えています。

 人間には大事なことが二つあるんだ。一つは能力開発。持って生まれた力を最大限発揮するのが人間の生き方だよ。人間が動物と違うのは、いくらでも努力で変えられるところなんだ。それが宇宙の法則の一つだよ。それからもう一つは、その力を使って人を幸せにすること。自分を活かして人のために尽くすことが大事なんだ。お母さんの手伝いしたり、困っている友達を助けてあげる。そういうことのできる人間になることが大事なんだ。そのために勉強するんだよ、と。

 私は心というものは形に現れてくると思っています。いくらカッコイイ言葉で表現しても、それが自分のクラスでできていなければ意味がありません。実践は泥臭いものなのです。若い先生によく話すのは、格好のいいことを言うためには、死ぬほど努力して血と汗と涙を流さなきゃならないんだということ。それで掴んだ真理でなければ嘘っぽいよ、と言っています。

 よく「一人ひとりを大事に」と言いますが、本当にその意味をわかって使っている人と、ただ響きがいいから使っている人とでは重みが全然違います。「一人ひとり」ってどういう意味ですか? 現実には、生まれながら障害を持っている子もいれば、この子は生まれてほしくなかったと思っている親もいる。いろんな家庭があって、いろんな親の思いを背負った一人ひとりがいる。それでも、かけがいのない一人ひとりなのです。実践を続けていると、それがわかってくる。そのときはじめて「一人ひとり」という言葉を使う資格を得るのだと思います。

 最前線で苦労して掴んだものこそが本物で、それが子どもを動かしていく力になるのだと私は信じています。


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ある雑誌の原稿 3 [語り]

 
 ある雑誌の原稿 3

 愚直に続けることも一つの才能
 同じことをやっても、やり方が違えば結果は異なります。よい結果が出るとすれば、それがその人の実力です。たとえば、同じスピーチを聞いても、つまらない人と面白い人とがいる。そういう差が教師にもあります。

 その根本にあるのは志の違いです。どんな志を抱いているのかが大きな分かれ目になります。とくに教育者には、自分は泥水をすすっても子どもをよくしてやろうという気持ちが必要です。そのためには、何があろうと子どものせいにしてはいけない。自分の力のなさを反省して、常に向上する努力を続けなくてはいけないのです。

 私の修行の一端をご紹介しましょう。たとえば私は、教科書の見開き二ページの中から発問を百個書き出すことを二年間続けました。三十、四十は書けますが、百個となると大変です。それでも続けていると、百個のうちに二つか三つ、いい発問が見つかります。それを授業で使うと、子どもの反応が明らかに違うのです。そこで要らないものは排除していって、最後に十個ぐらいを残して、子どもの出方を見ながら「これはいい」「これは駄目」とさらに選別していく。すると次第に、こういう発問をすればいいんだ、と感覚的にわかるようになります。量をこなしていくうちに、感覚が磨かれるんです。

 この感覚は頭で理解できるものではありません。もうアイデアが出ないというところからさらに絞り出すような苦しい作業を毎日続けるからこそ、身についてくるものです。それができるようになると、出張授業に行って直前に教材を渡されても、ものの一分もあれば準備ができます。「このクラスにはこれだ」と瞬間的に判断できる。これは修行の成果だと思います。

 「百もつくって意味がありますか」と聞かれますが、やってもしょうがないと思うようなことを最後まで粘り強くやり切る過程が大事なのです。その中に発見がある。やらない人間には決してわからない世界です。

 愚直に続けていれば、あるとき突然、驚異的な差となって現れてくる。「微差、僅差の積み重ねが大差となる」と鍵山さんはおっしゃっていますが、そういうことだと思います。私には幸いにも「続ける」という才能があったのです。めげない、諦めない、続けるということでは誰にも負けない自信がある。そして、たくさんやるという才能もあった。続けていれば、才能はできあがっていくものなのだと思います。


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ある雑誌の原稿 2 [語り]


 ある雑誌の原稿 2

 十年間の〝修行〟から掴んだ真理

 私が教師を志した原点は小学校四年生のときにあります。中村先生という担任の先生によく面倒を見ていただいて、力を引き出していただいたのです。中村先生の教え方は独特で、プリントを自分で作って学習させたり、太宰治や亀井勝一郎の作品を読み聞かせてくれたり、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を暗唱させたりと、他のクラスとは全然違うことをやっていました。

 小学生の私にも、先生が一生懸命に子どものことを思ってくれているのが伝わってきました。よく叩かれましたが、それは自分が悪いときでしたから納得できました。それに、叱るだけではなくて、できたときはすごく褒めてくれましたから、先生についていきたいという気持ちが強くありました。

 教師になろうと本気で考えはじめたのは高校のときです。最初は体育教師になろうと思っていたのですが、高二のときに産休補助で来た先生から「あなたは小学校の先生がいいんじゃないの」と言われて小学校の先生になろうという気持ちが湧いてきました。

 大学は夜間部でしたが、周りは教師になりたくて仕事を終えてから来ている真剣な人たちばかりでしたので、すごく刺激を受けました。教員採用試験に受かるために、みんなで週一回ぐらい集まって勉強をしたりもしました。

 教員になると、今度は新卒の仲間たちで集まって、学級通信を持ち合ってみたり、悩みを相談したりする会をはじめました。それがスタートとなって、私の〝修行〟がはじまったのです。二十以上の教育研究団体に通っては勉強を続けました。「自分はこうやりたい」という思いはあっても、やり方がわからない。だから、力のある先生の授業を見学させてもらったり、教えを乞いに出かけて行ったのです。

 こんな感じで若いときから目立っていたので、周囲の反発はすごいものがありました。それでも続けられたのは、私を最初に見てくれた主任さんが「自由にやりなさい」と背中を押してくれたからです。その一言があったから思い切ってやれた。いまもときどきお会いしますが、本当に感謝しています。

 ただ、自分がこんなにやっているのに周りは認めてくれないというジレンマは常にありました。子どもとの関係はすごくいいのに、どうして認められないのか、と。そういうときに、斎藤喜博という群馬県の島小学校にいた先生を描いた本とめぐり合ったのです。斎藤先生は昭和三十年代に群馬県の教育に一代を画した人ですが、そこには私の思い描く理想の教育がありました。教育ってすばらしい仕事なんだ、すごいことができるんだな、と目を見開かされるような感じでした。

 現実を見ると、自分の授業を棚に上げて「子どもがダメだ」という教師がいます。でも、そういう人を相手にするのはやめて、自分の理想を求めようと思いました。そのために全国の熱心な先生方を訪ね歩きました。熱心な先生は「子供は駄目だ」なんて絶対に口にしません。そして威張らない。教師になりたての私が行っても、丁寧に対応してくれました。

 教師になって結婚するまでの十年間、そうやって自分から求めて行動していました。その十年間の修行が、現在の私の基礎になっているのです。

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ある雑誌の原稿 [語り]

 ある雑誌の原稿 1

天の声に導かれて
 教育者の森信三先生は、誰でも自分の使命が書かれた封筒を天からもらって生まれてきている、といわれています。そして、それがわかる人には三十二歳前後でわかるのだ、と。

 三十歳のとき、私にもその天からの声が聞こえてきました。そのとき私は、自分流の教育とはこういうものだと、徹夜をして一気にノートに書き上げました。人に話すと笑われますが、まるで手が自動で動くような感じでした。

 そこで私が気づいた使命は三つあります。一つは新しい実践を開発する。二つ目は子供が変わったという事実を見せて、教育の可能性を示す。三つ目は全国に埋もれている人たちを引き揚げて、いい教師をたくさんつくる。これが自分の天職で、自分が生まれてきた意味なのだ、と強く感じました。

 それまで十年近く教師をやっていましたが、このような自覚を持ったのはそのときがはじめてでした。

 教師の世界はいいものをいいと認めないのです。自分のクラスが良くなると、「あなたは自分のクラスだけしか考えていない」と批判される。クラスを良くしてなぜ悪いのか不思議ですが、一人だけ突出しないように押さえつけようとするのです。こうした風潮に反発して自分なりにやっていましたが、やはり先生を巻き込んで学校全体を良くしていかなければいけない、相手を許容する度量を持たない限り絶対に学校はよくならないと気づいたのです。

 鍵山秀三郎さんの『凡事徹底』という本に出会ったのも、そのころでした。私は長く少林寺拳法をやっていたので、靴を揃えたり掃除をしたりということには積極的に取り組んできました。しかし、それを十年続けても「何、格好つけてんの」「そんなに管理職になりたいの」と陰口を叩かれました。しかし、鍵山さんがトイレ掃除を三十年も続けておられると知って、「自分はまだ十年だ。人に認められるには三十年かかる。十年じゃまだまだ駄目だ」と反省し、同時に、自分の道は間違っていない、と確信したのです。

 人の悪口を言わない、人を責めない、人のためにできるだけ尽くす、という姿勢が定まったのはそれからです。

 ※ある雑誌の原稿

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自分流の教育創りを進めていきましょう。

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